私どもケーズエンジニアリングでは、トヨタ生産方式の考え方による改善コンサルティングを通じ、数多くの改善リーダーを育成するサポート活動をさせて頂いております。

改善エッセイ

第13話 物流費改善とは

2012年11月27日

 

       最近、相談を受けるテーマの1つが『物流費改善』である。

     物流とは、ウィキペディアに依れば

     「物流とは物的流通(Physical Distribution ;PD)の略で

     生産物を生産者から消費者へ引き渡すこと」と定義している(少々アイマイであるが)。

     物流の5大機能として、輸送・保管・荷役・包装・流通加工があることは

     既に一般化している(情報は其々の項目に含まれる)。

     物流費とは従って、この5大機能によって発生する費用(コスト)ということになる。

     ところが、物流費改善の相談の大半は輸送費改善であり

     具体的には輸送運賃カット、輸送時間短縮、積載方法改善、輸送ルート改善などである。

     数年前、中国で物流費改善の講演を行ったときも、質問の多くはこの輸送費の改善であった。

     確かに、輸送費が物流費に占める割合は、業種に依って異なっているが

     約60~70%であり、半分以上を占める。

     勿論、輸送費の低減も大切であるが、物流費の30~40%を占めるその他の費用低減も

     重要になってくる。

 

     鈴村さん(元トヨタ自工主査)は

      「ホテル代(保管費)と葬式代(死蔵品の処分代)を忘れるな!」

     とよくドナッタものだった。

     しかし、一番重要なことは、その生産物をドコで造るか、どの様に造るか

     (原料処理からか又は、一部加工のみか)、どのタイミングで、どこに運ぶか

      運ぶ時の荷姿、開梱作業方法等の一連の流れの作業コストを把握し

    その改善をどれから実践するか、である。

     物流は、原料が姿を変えてお客様へ届く流れの一部にすぎない。

      物流費は、流れによって発生するコストの一部に過ぎない。

     従ってそう云った意味からも、物流コストは部分改善である。

     まず全体の流れによるコストを把握し、その改善順序を決めて改善する

     -即ち全体改善-ことが基本である。

     (詳しくは、拙著「トヨタ式ホワイトカラー革新p.172~p.176」を一見して下さい)

 

     「最適物流」という言葉がある。

     当然のことながら、「全体の流れを最適にする物流」ということになる、

     全体の流れの最適化は、どの様に導くのだろう?

     まさか、「物流を最適にする物流」というどこかの物流会社の宣伝文句ではないだろう。

    20年位前、鈴村さんへの質問の1つに「最適物流はあるか?」と云うのがあった。

     彼曰く「ある。それは輸送費0、荷役0、包装0にすることである。」と答えた。

     出来るか、出来ないか考えて下さい。

     「最適」でよく出てくるのが「適正在庫」である。

     これも鈴村流で云えば「存在する。ただし、1個(鈴村さんは0個と云ったが)」である。

     これについては、次回で説明したい。

 

     (近藤哲夫)

 

第12話 錯覚とは

2012年11月13日

    原価について調べていると、世の中の常識の中に“錯覚”が多いのに気がつく。

   例えば「在庫」は貸借対照表(B/S)では資産の部に入っている。

   従って、「在庫を低減すると経理上の数値のバランスが崩れる(?)」と

   訳の解からない横やりが入り、在庫や仕掛り品の低減を中断したことがある。

    なぜこの様なことが起きているのだろうか?

   鈴村さん(元トヨタ自工主査)に言わせると

   「現在の経理の人間は、殆どが江戸時代の人間の常識を受け継ぎ、

   明治維新にも生き残った人々の集まり。」とのことだ。

   曰く、江戸時代は「お家には倉一杯の品物がある。分限者である」と言って

   倉の中に一杯ため込んでいると金持ちであると誉めた。

   即ち在庫は「財庫」であった。

   ところが、第二次大戦後に不況になると在庫を多く持ったために

   資金繰りがつかず倒産が続出した。

   「ザイ庫倒産」「罪庫倒産」と言われた。

    ザイ庫はこの様に「財庫」になったり「罪庫」になったりする。

   自分のセイではなく、世の中のセイで。

   それは、江戸時代の様に品不足であれば「財庫」になる。

   即ち「右肩上がりの成長」の時は、ザイ庫は「財庫」になり

   不況時は「罪庫」になるだけである。

   従って、ザイ庫が資産の部にあるのは、世の中の景気が右肩上がりの時のみである。

    本によると今日の会計学の基礎が作られたのは1920年代らしい。

   この時代は、ほとんどの先進国が好・不況の波はあっても、右肩上がりの基調にあった。

   この時代の「モノ造り」は、産業革命が終了したか(例えばイギリス)

   または途中(例えばアメリカ)であり、商品の品種の数は少なく

   繊維産業を除いてほとんどが少量生産であった。

   今日でいう「小品種、少量生産」である。

   そして、右肩上がりの基調となれば、在庫が資産の部にあることも理解できる。

    しかし、時は既に90年以上経過している。

   にもかかわらず、修正、改善、抜本改正をしていないのがオカシイ。

   今日の世界の地震学会の「想定外」を笑えない。

 

    オカシイといえば、近頃電力会社の値上げで問題になった「全部原価計算制度」である。

   消費者がこれはオカシイと言っても、日本のすべてのメーカーの原価は

   この全部原価計算制度によって計算されている。

   これは、オカシイヨといわれて既に40年近く、ABC計算や

   その他色々の方式が提案されたが、中々ウマイのは出てこない。

   例えば、関東自動車の生産技術部で「内製か外注か」の部品を検討したことがある。

   例えば内製の1時間当たりのレートは3,500円、外注は1,500円とすると

   ほとんどが外注になる。

   加工費は、直接作業時間×レートであるからである。

   工場は「工数低減して、余った人数で作る」として内製を考えていたので加工工数は0で

   加工費はタダと主張してもだめで、ほとんどが外注になってしまった。

   レートは、総間接費/総直接作業時間である。

   総間接費には、直接賃金を除く全ての費用が入る。

    1980年代に日・米自動車メーカーの原価比較をしたことがある。

   日本の殆どのメーカーの1台当たりの作業時間(工数)はアメリカよりも低かった。

   ところが、間接部門を比較するとアメリカの方がはるかに低い。

   実際に営業部門を除いた人数比(人数/売上)では、例えば同業種比較でみると

   総務部門で日本は1万円の売上当たり0.5人、アメリカは0.1人、の人出を要する。

   経理も同様であった。これはアメリカでは間接部門も、固定化せず変動する結果による。

   例えば、アメリカ滞在時の私の秘書は一人5役も行っていた。

   所が、この東洋ではホワイトカラーはブルカラーよりもエライ、と言った錯覚がある。

   何故だろう?

   いずれにせよこの錯覚によって、結果は間接費が高くなっている。

 

    この全部原価会計の基礎も1920年代に作られた。

   この間世の中は大変化した。2つの大戦、大災害も数回あった。

   「モノ造り」も「小品種、少量生産」から「多品種、変量生産」へと変化した。

   それなのに何故改正しないのだろう?

   余りにも超保守、錯覚も甚だしい。

 

    ノブリス オブリージ(Noblesse Oblige)という言葉がある。

   日本語ではこれにピッタリする言葉はないが、私なりには「惻隠の情」と理解している。

   日本が住み良いのはこの「惻隠の情」があるからだと海外の友人は言う。

   しかしだんだんと消えていくのは淋しい。

 

    「錯覚の科学」(The Invisible Gorilla、C.チャブリス、D.シモンズ、文芸春秋)

   という本に依ると、日常的な錯覚とは

    ①「非注意による盲目状態になる錯覚」である。

      これは、バスケットボールの試合で「パスを数えてください」とお願いすると

      「試合中にゴリラのぬいぐるみが出ても気付かない。」(正に本の題名)

      ことを指している。1つのことに集中すると、人は予期しないものは気付き難い様だ。

    その他の錯覚として、

    ②「記憶の錯覚」ということで、ヒラリー・クリントンの例が出ている。

      自分が体験したことは鮮明かつ正確に記憶出来ると思っている。

      自分の記憶は意外にも歪むことが多い。

    ③「自信の錯覚」では詐欺師の話がある。

      詐欺師は英語でコンマンと言う。

      このコンはコンフィデンス(confidence、自信満々)のコンである。

      自信満々の態度であるので騙される。

    ④「知識の錯覚」とは、

      自分の能力の限界に気付かず、過大評価することによる錯覚である。

      チャールス・ダーウィンは「知恵者より愚者の方が自信が強いものだ。」と言った。

      医学では自信ある医者はアテにならないと言われる。

    ⑤「原因の錯覚」では、

      偶然に同時に起きた2つのことに、因果関係があると思い込むことである。

      例えば、トヨタ車の安全性は「コンシューマーレポート」を読めば

      すぐ理解できるのに、たった1人の友人の体験でトヨタ車は故障が多いと信じてしまう。

      データよりも実話に弱いのである。

      その他、あるワクチンが自閉症を発症するというデマを信じる、などがある。

    ⑥「可能性の錯覚」とは、

      自分の中に限っている大きな能力を簡単な方法で解き放つことが出来る

      と思い込むことによる錯覚である。

      自分の能力は10%しか使っていないとか

      モーツァルトを聞くと頭が良くなるとか

      自己啓発で簡単に能力を引き出せるとか、色々実例がある。

      その中でも面白かったのは、アメフトのニューヨーク・ジェッツの

      ヘッドコーチ、E.マンギーニによるモーツァルト効果である。

      結果は全然効果上がらず、1年でクビになった。

      また、ディズニーによるDVD(ベイビーアインシュタイン)の販売で

      赤ん坊を天才にするワザである。

      結果は全然ダメ。だけど売れている。(年商1億ドル)

 

    以上、日常的錯覚に触れたが、いずれも自分の能力や、可能性を

   過大評価するということが原因の様だ。

   この様に錯覚が日常的に多くあることを日頃、多くの人々に接していると強く感ずる。

   私どもは「見る」という行為を、眼でありのままを見ているのではなく

   「頭で解釈して見ている」ことに感じている次第だ。

   しかしその錯覚の対策は難しい。

   この本の対策は私とは若干異なるので、ここでは紹介を見送ることにする。

   もっと知りたい方は、本を読んでください。

 

    私なりの対策としては、大野さんの教えの通りに

   「謙虚に」、「素直に」、「白紙で」、「惻隠の情」を持って日々精進していくことである。

 

   (近藤哲夫)

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