私どもケーズエンジニアリングでは、トヨタ生産方式の考え方による改善コンサルティングを通じ、数多くの改善リーダーを育成するサポート活動をさせて頂いております。

改善エッセイ

第83話 この年になって思うこと

2015年10月27日

  私もこの8月で83歳になった。

82話でも記したが、この年になって現場に呼んでくれる友人達が居ることは

全くうれしいし、大いに感謝している。

 

 現場に入る時の気持ちは、30歳代、40歳台は仕事であり、

また役職としての現場監査であったが、最近は82話で記したように楽しみ

で現場に入る様になっている。

何か面白いコトはないか。

と好奇心がわき出ている。

 現場改善はヒト、モノ、機械の動きの改善が主であるが、

それを通じて工場全体の儲けにどの様につながっているか推測するのは楽しいものである。

 また、現場改善でも工場全体にかかわりを持つ改善は、

個々の改善をどの様にまとめていくかを考えると、これまた苦難はあっても、

楽しいものである。

 

 1971年からスタートしたセンチュリーの60万円/台の原価低減は正にこれであった。

(60万円/台は関東自動車の改善目標分、トヨタは40万円/台)

 当時センチュリーは関東自動車(現トヨタ自動車東日本㈱)の東富士工場の

中のセンチュリー専用工場で製造されていた。

 この時のセンチュリーは、エンジンのパワーアップ(2400CC→3000CC)による

エンジンルームの拡大、ミッション部品の改造、トランクルームの拡大のための改造という、

いわばマイナーなモデルチェンジであった。(第4話参照)

 モデルチェンジを実行しつつ、大幅な原価低減100万円/台(全体で1/3低減)

を行うというものである。いわば2正面作戦である。

そして、投資額は5億6千万円から5千6百万円と1/10に、大野さんによって

カットされてのスタートである。

従って、従来の様な設備、治具の外注化では投資金額が不足する。

どうするか?

 

 個々の改善をまとめて1つの方向に持っていくにはどうするか?

モデルチェンジと改善の連動をどの様にするか?

などの問題をどの様に解決するか。

これがチームリーダーに任命された私の役割であった。

当時の私の職制上の地位は関東自動車工業㈱東富士工場製造部次長であり、

改善推進担当である。

改善推進とは主として製造現場の改善であり、私の役割は製造部に与えられた

改善目標を各課に割り当てて、その進度をチェックし、時にはアドバイスしたり、

時には改善メンバーを集めて激励会を行ったりしていた。

 このセンチュリープロジェクトのリーダーとしてまず考えたことは、

このプロジェクトは従来の職制では荷が重すぎるということである。

従来の職制、即ち製造部長-課長-職長(係長)-班長と縦の鎖では

ルーチン化した仕事は十分にこなせる。

しかし大幅な原価低減とモデルチェンジの2正面作戦はまず経験したことがない。

特にこの大幅な原価低減はこれまで誰も経験したことがない。

会社の内外では「近藤はプロジェクトに失敗して会社を退職するだろう」というウワサも

出始めていた。

この様なウワサが耳に入る度に「なにくそ!」と何度叫んだことか。

 

2正面作戦のための組織

両プロジェクト成功のためには

①指示がストレートに出来る組織、そのための人事、組織は私に一任

②指示が無くても自立で活動するチームメンバー体制

③原価低減プロジェクトとモデルチェンジプロジェクトは別々にしない。一緒の仕事と

  して推進する。別にすると連絡会議等で重複する。

④私の机は皆と同じ場所に置き、毎朝の会議は20分程度、全員起立して行う。

  (全員起立は大野さんからのアドバイス、会議が長くならない)

 

①は当時技術員室の係長だった守谷氏を製造課長兼プロジェクトサブリーダーに任命した。

相当強引であった。前製造課長は品質保証課長に異動させた。

守谷氏は改善を通じての仲間であった。社内技術員養成所の第一期生であり、

いわば私の教え子でもあった。

 プロジェクト内のまとめは彼に全て任すと全員の前で宣言したものである。

私はトヨタとかプレス工場とか外との折衝を行うとも宣言した。

現在から翻って見て、プロジェクトが成功した第一の理由は守谷氏をサブリーダー

にしたことであると確信している。

センチュリー工場の全員が作業者を含めて一丸となったのである。

 

 その後10年程して、私が50歳の時に会社を退職する時、

その時の東富士工場長から電話があった、

「班長、職長等が送別会をやりたいと言っている。奥さんと一緒に来てくれ、

ホテルは取ってある。」

その夜は本当に涙が出るほど楽しかった。

妻が、「最近では、今日が本当に楽しそうにしている。」と言った。

その送別会には540人の人々が出席してくれた。

会社と喧嘩別れで去る人間にここまでやってくれるとは!

今日でもそう思うと本当にうれしいものである。

 

②の両プロジェクトを一緒に行うといっても、下部組織は仕事が重複する。

そこで下部組織は溶接、塗装、組立の各職長(係長)をグループリーダーにして、

それぞれのグループリーダーに技術員室の若手(20歳代)をサブリーダーとして置いた。

各グループリーダーには班長で若い人々をメンバーにせよと指示した。

 改善の方向性、モデルチェンジの方向性は私のリーダーとしての仕事として出す。

その方向に向かって自主的に活動しなさい。日程が早くなっても構わない。

遅れそうになったら私に連絡しなさい、と定めた。

結果は、ほとんど報告は受けなかった。

朝の会議で済んでいたのである。

 

モデルチェンジの方向性

 自動車製造で投資が大きいのは、プレス、インジェクションの型投資である。

特にプレス型は例えばドアアウターパネルのプレス製造では

ブランキング型→絞り型→横曲げ型→サイドカット型→横穴あけ型→縦穴あけ型 と

通常5~6型が必要である。

 昭和32年頃は、一般プレス品(あまり精度が必要としない)は絞り型と曲げ型程度で

手加工であった。(インジェクション部品は、当時はトヨタからの支給か、外注であった)

 

 今回のモデルチェンジはエンジンフードとトランクフードの型状が変わる。

この2部品の絞り型と折り曲げ型は生産技術部に設計、製作を依頼する。

合計4型の目標金額はいくらとする。

他の曲げ、穴あけは手加工とする。手加工の要員はセンチュリーの溶接工程で

手配する、等を決定した。

 また、溶接治具は現状の改良、修正を実施する。新規治具は製作しない。

なお改良、修正作業は溶接工程のメンバー及び改善メンバープラス他工場から

の応援で行う。

作業時間はライン終了後、または休日出勤とする。

等を決定し、投資金額5600万円に近付けるようにした。

 また、床下作業は組立の改善班が中心になって、工場の一部に穴を掘り、

廻りをコンクリートで固めた、すべて内製である。

 また天上走行用のレールも自分達で製作した。今から考えると建築基準法

すれすれの工事を行った。

 

 それでも1974年新センチュリーがラインオフした時、総投資額は8千万円弱になった。

約2400万円増加した。

 この報告をした時、大野さんは

「5千6百万円だから2400万円の増加で済んだ。これが5億6千万円だったら

  1億や2億はオーバーするヨ。投資は最初小さければ小さいほど誤差は小さくなるヨ。」

と私に教えてくれた。

 

大幅な原価低減活動の方向性

 プロジェクトのリーダーに任命された晩に1人でセンチュリーの原価計算書を読んでいた。

それで気付いたのは、関東自動車の直接原価の80%は加工費であるということであった。

ということは、加工費は一般に 台当り加工工数(時間)×時間当たり経費(の係数) で

決まるから、経費は一定であるので、台当り加工工数(時間)を低減すれば、

目標に近付くということになる。

(経費節減、プレス品の歩留向上、ハンダ等の補助材料の節約などは微々たるものであった)

当時のセンチュリーの台当り加工時間は216時間であった。

60万円低減の目標に近付けるためには、この加工時間を何時間にすればよいか。

これは簡単に92時間と出る。即ち現在の加工時間を58%低減することになる。

ということは現状人員を半分以下にすることである。

 仮にこれが可能だとしても余った人々はどこに行くのだろうか?

今、懸命になってガンバッている人々をカンタンにカット出来るか?

出来ない。 どうする?

悶々としている内に約5カ月が経過した。

現場改善は方向性を出さないため改善スピードが鈍化して来た。

大野さんからは「まだまだ浅い考えだ」と言われ、

鈴村さんから「『あるべき姿』はまだ出ないか」と嫌味を言われる様になった。

 

 ある夜、変な夢を見た。

溶接の若い技術員がクラウンのエンジンルームを覗いているのである。

「何をしている?」と聞くと、

「クラウンのエンジンルームを見ています。」と言う。

この夢は翌朝になっても覚えていた。

工場に着いて、守谷氏にこの話をすると、彼は、

「クラウンとセンチュリーの混合生産ではないか。」と言う。

私は「そんな馬鹿な。クラウンとセンチュリーでは全く構造が異なるヨ。」

彼は「現場に行って見ませんか。」と言うので一緒に行ってみた。

そしてオドロク。

確かにクラウンはシャーシー付き(現在は異なるが)、センチュリーは半モノコック、

鋼板の板厚のクラウン1.0mm、センチュリー1.2mmと異なる。

しかしエンジンルームの中はセンチュリーが少し大きいだけであまり変わらないのである。

私の頭はセンチュリーとクラウンは全く異なるモノと言う考えに凝り固まっていたのである。

本当に驚いた。

座禅していて、後ろから突然叩かれた様なショックだった。

「混合化」または混製生産のアイデアが生まれたのはこの時であった。

 

 溶接と塗装工程は、クラウンとセンチュリーの台当り工数差はあまり変わらない

(許容範囲の中)なので、混合で流す、組立工程はセンチュリーがクラウンの

約4倍の加工時間なので別ラインとする。

物流もクラウンの部品の横にチョット隙間を作り、そこにセンチュリーの同じ様な部品を

置き運搬する。センチュリーの物流費はほぼ0.

鈴村さんはこの方式を「小判鮫方式」と名付けた。

改善によってセンチュリーが92時間になり、生産台数は1日4台、月100台の時、

現状人員で生産可能な台数は月1650台になる。

しかし、大野さんには「クラウンを月2000台戴きます」と言った。

大野さんは「元町から持っていけ」と言った。

元町工場からは「お前は強盗だ」と言われた。

(元町工場はトヨタの元町工場)

 

クラウンが月2000台来るようになって、関東自動車のセンチュリープロジェクトに

対する風当たりが全く一変した。

センチュリー工場も、センチュリーは赤字から黒字になり、クラウン生産で月2億円以上の

黒字を生む工場に変わった。

 

センチュリープロジェクトの成功は

 第1は守谷という良きサブリーダーを得たこと、

 第2は「どうせ失敗する」と言われたプロジェクトを全員が本当に死に物狂いになって

 改善、内製化、多能工化(クラウン作業を覚える)に取り組んだことである。

 

最後にこのプロジェクトにプレゼントを戴いた大野さんに感謝、感謝である。

 

(近藤哲夫)

第82話 現場に出ること

2015年10月13日

 先日、張さん(トヨタ名誉会長)に埼玉県に来て戴いて2日間時間を取って戴いた。

1日目は東松山に在る私の友人の工場を見てもらい、

2日目は大宮パレスホテルで講演をして戴いた。

 正月以来の再会であったが、2人で話合えて印象に残ったのは、

「現場に出る事が出来て楽しいでしょう」  

の言葉に尽きる。

80を過ぎてもなお現場に出られる楽しさは、50代、60代のころに比べても大分異なる。

その頃は仕事の一部として現場に出た。不良、不具合、生産性等が自然と眼に入ったものである。

 現在も多少はこれを感じる。しかしそれ以上に感じるのは現場の鼓動というか、

生きたリズムを強く感ずる。それを感じるとき楽しい! という気持ちが自然と湧いて来る。

張さんも同感していた。

大野さん(元トヨタ自動車副社長、故人)北海道の紀文食品の工場に来て戴いた頃、

すでに70は超えていたが、楽しそうだった。

 3度程来て戴いたが、視察後の講演も楽しくお話をして戴いた。

副社長時代とは大分お変わりになったと当時は思ったが、今になって見ると、

現場に出れる事の楽しみを感じておられたのではないかと思う。

ともかく昔と違って現場での指摘が優しかったのである。

70を過ぎて現場に出られるということは、まだ動ける、

まだ現場を視る力がある、まだしゃべれる力があると自分自身に納得する。

この楽しみをこの年で得ることが出来るには大いなる喜びである。

 

 現場を視る力は退化していくのだろうか?

これは自分にはワカラない。

しかし昔と最近では少し変わってきたなァ と感じることがある。

例えば、工場で機械停止が発生しているのを視ると、

昔は機械が動くまで原因追求の眼で廻りを見て指示していた様に思う。

多分周りからはきつい眼で見られていると感じられていたのではないかと思う。

現在は動くまでみているのは変わらないが、

時々機械がかわいそうだ、こんな使われ方では!   と感じる時がある。

そう感じる度に、昔鈴村さん(元トヨタ自動車主査、故人)が言っていた

「機械が泣いている」 という言葉を思い出す。

いずれにせよ現場を視る力は大野さん、鈴村さんに鍛えてもらった賜物である。

大野さんには改善についての考え方を、鈴村さんには具体的な視方を教えてもらった。

お二人の言い癖は

 問題が向こうから教えてくれる

ということである。

 現場を歩いて、ムダや問題が向こうから飛び込んでくる様になれ!

ということである。

何が問題かを探すのはまだまだ初級だ!

これは鈴村さんの言葉である。

 

仲間を増やさないと個のテーマは出来ないぞ!

1人でも多くの仲間を増やせ!

これは大野さんお言葉である。

 

次回以降これを具体的に記してみたい。

 

(近藤哲夫)

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