私どもケーズエンジニアリングでは、トヨタ生産方式の考え方による改善コンサルティングを通じ、数多くの改善リーダーを育成するサポート活動をさせて頂いております。

改善エッセイ

第61話 見るということ -歴史を観る眼6 橋爪大三郎 -宗教という基準で歴史を観る その2 仏教、儒教-

2014年11月25日

第55話の続きとして第61話を述べることにする。

テキストは第55話同様、

①世界は宗教で動いている

③ゆかいな仏教

④おどろきの中国

を主とする。

 

・仏教について

 仏教はヒンドゥー教の中からアンチヒンドゥーとして起こったことはこれまで理解してい

たが、現在のインドになぜ仏教徒は居ないのだろうか、が疑問であった。

それがヒンドゥー側の逆襲に会って、ヒンドゥー教の中に取り込まれてしまったと言う。

確かに、ジョージア工科大学留学時代インド人の友人と話していた時、「ゴーダマはヒンド

ゥー神の1人だ」と聞いたことがある。(これを「化身」というらしい。その後シンガポー

ルでヒンドゥーの寺(?)に見物に行ったことがある。)

仏教がインドから無くなった第2の理由がカースト制にある様だ。アーリア人がBC25

00年頃インドに侵入した時、彼らが少数で如何にして多数のインド人をまとめるかとし

て採った制度がカースト制である。それは、カースト外の交流、結婚はダメ。カーストは

其々のグループで交流、就職、結婚する、従って生まれながらにして職業は決まっている。

他のグループに対しては無関心である、と言った制度の様だ。それで平和に2000年以

上生活している。

(一方中国は国を統一することが、1つの国にすることがまとめる基本となる。)

 

仏教の特徴

ドグマ(Dogma、教義)がないこと。

キリスト教には三位一体というドグマがあるし、イスラム教は偶像崇拝の禁止等のドグマ

があるが、仏教にはない。

仏教は個人が「覚る」ことを目的としている。「覚る」ためには何をやっても良いくらい自

由さがある。

達磨(ダルマ)は「釈尊は経典を残したかもしれないが、実は一番大事な修行法は経典に

書いていない。・・・・これが私の伝える坐禅である。・・・・戒律も無かったことにする。

私の定めたルールに従って修行すれば良いのだ。」(①のP211)

従って、これまで出家した人々は托鉢僧として街頭を歩き廻っていたが、

禅僧は土は触っても良いなど、自給自足で生活するようになった。

(今日では一般人と変わらない生活だがナ。)

 この自由な考え方は、21世紀に於いても我々にとって十分適用可能だと思う。暗黙智

 をどうやって形式智にするのかの参考になる。

 確かに、一神教の様に1つの原器しかない社会では少なくとも私にとって息苦しくなる様

だ。

 

・儒教について

  儒教の様な政治学がなぜ中国で栄えたか、良くまとめて説明されている。(①のP184~)

  1つには、地政学的条件

  中国大陸はほぼ平原であり、従って物流コストが安い。遊牧民の侵入や、

他国との戦争をヨーロッパに比べてやり易い。

そのため安心して働けるために農民が強力な統一国家を望んだと言う。統一国家のためには、

人々を支配する政治学が生まれてくるには当然であろう。

この感覚は日本人には全く理解できないのではないか。

日本でも最近、安全保障についての議論が行われているが、日本人は政府は出来るだけ

小さく、自分達が楽に暮らせれば良いと思っている。日本の歴史で沖縄を除いて、この

2000年他民族に侵略されたことが無いので、中国人の様な敏感な安全保障意識は

持ち合わせていないだろうな?

 

儒教は宗教。  これには驚いた。

儒教が宗教である理由を2つ挙げている。

1は、祖先の崇拝。

日本人の多くは(私を含めて)せいぜい祖父母どまりだが、中国人は数十年代前という

のはざらにある。そして墓はまさに廟である。この遠い祖先を崇拝することは韓国でも

同じである。日本は皇室位か、100代以上続いているのは。

2は、天を祀る。

この天を祀る行為を派手に行うことによって、皇帝は自分の政権の正当性を人民に認めさ

せる。

この2つが宗教的行為であると言う。

 

この祖先崇拝はインドにはない。祖先は輪廻によって何になっているか分からないから

である。

中国仏教そして日本仏教が祖先崇拝を行っているのは、仏教が中国に入った頃、儒教の

イイトコ取りで、仏教に入れた様だ。(また、僧を官僧にしたのも、

同様に托鉢を余りしなくとも良い様に経済的補助をした。これを日本も真似をした。)

 

中国という国で何故表意文字の漢字が生まれたか。

なぜ仏教が中国に入って変化(?)したか。

など面白いことを多いに勉強させてもらった。

 

最後に、

何故現代中国が「社会主義市場経済」というオールドマルキスト(?)にとっては

意味不明の用語を使っているのには驚いたが、これを マルクス主義の発展として捉えるかどうか。

橋爪氏は発展として捉えている。即ち、

『「社会主義市場経済」という手段が労働者の幸せを保証させるという目的に沿うもので

あれば共産党がこれを採用してもいいじゃないか』

  ナルホドナ!

  インド仏教が中国に入って、中国仏教に変化した様に、マルクス主義もロシア主義から中

国主義に変化、発展した様だ。

 

(近藤 哲夫)

第60話 あるべき姿と大局観について

2014年11月11日

 「大局観」羽生善次著  角川oneテーマ21

 本屋で立ち読みしていて、ついつい夢中になってしまった。やはり一芸に秀でた人の言うことは素晴らしい。大野さんと会話している様な錯覚に陥っていた。

 例えば『「大局観」とは具体的に、全体を見渡す、上空から眺めて全体像がどうなっているかを見ることである。(P60)』

 これは大野さんから会う度ごとに言われていた言葉、即ち『森を見よ』『森を見ることであるべき姿が視えてくる。』

 この言葉と羽生さんが言っている言葉は、私にとっては全く同じと受け止めた。また次の言葉も同様である。

 『「大局観」では「終わりの局面」をイメージする。最終的に「こうなるのではないか」という仮定を作り、そこに「論理を合わせていく」ということである。(P123)』

 これは鈴村さんにしょっちゅう言われていたことと全く同じである。即ち、『コスト半分という大改善はまず「達成後」をイメージし、それを達成するために「あるべき姿」を具体的に仮定し、それに合う様に改善していくことだ。』

 大野さんとお会いした時、大野さんの御歳は60歳くらいではなかったかと思うが、それなのにお年寄り(失礼)でも「こんなに柔軟な発想が出来るのか!」と驚いたものであった。

羽生さんは『若い人には「大局観」がないが、経験を重ねて「大局観」を身に着けていくと、大筋で間違っていない選択が出来る事になる。(P23)』

 「あるべき姿」がポンポンと湧き出すお年寄りを見て全く驚く他は無かった。

また、大野さんは65歳を過ぎても新しい事にチャレンジする態度は素晴らしかった。

 

これは大阪にあるトヨタグループ工場での話である。その工場で新車のモデルチェンジを早く確実に実施するための新方式(その後この方式はトヨタグループでは実施していないが)をテストされた。朝から夕方まで現場に立たれていたのである。

 「あるべき姿」を出し、(具体的な仮定を出し)そしてそれをテストするというプロセスは科学的である。

 羽生さんも同じことを言っている。『リスクを取らなければ棋士の成長は止まってしまう(P34)』

 また、「大局観」と「直感」は異なるものとも言っている。

『「直感」とは、数多くの選択肢から適当に選んでいるのではなく、自分自身が今までに積み上げてきた蓄積の中から経験則によって選択しているのではないか、と私は考えている。だから研鑽を積んだ者でなえれば「直観」は働かないはずだ。(P130)』

全く同感である。鈴村さんの直感の素晴らしさ、真因を見抜く鋭さはまさに研鑽の賜物と言える。

「直感」と同じ様で違う言葉に「閃き」がある。

「きちんと論理立てをして説明できるのが直感で、なんだか分からないがこの方が良いと考えるのが閃きだそうだ。(P133)」

私の場合、閃きなのか「やる気」なのか、よく分からないで日々行動しているが・・・。

改善は継続することが基本で既に50年近く行ってきたが、羽生さんも毎日の練習こそが基本であると言っている。

『「地道に、確実に。一歩一歩進み続けることが出来る」ということこそ、最も素晴らしい才能だと思うのだ。(P77)』

全く同感である。どのような仕事も同じなのだなァ。

 

 若い人々に「あるべき姿」を言っても中々理解してもらえなかったが、「大局観」と同様、経験を積まないと理解出来ないかもしれない。

 

 

(近藤 哲夫)

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