私どもケーズエンジニアリングでは、トヨタ生産方式の考え方による改善コンサルティングを通じ、数多くの改善リーダーを育成するサポート活動をさせて頂いております。

改善エッセイ

第39話 PUSHかPULLか

2013年12月24日

   私共工場経営に携わった人間の1人として、PUSHとかPULLと言う言葉を聞くと、

  PUSHとは計画(月間)に基づく生産のことを言い、PULLとは、お客様(後工程)の要望に基づいて

  生産すると言う用語だと思っていた。

    PUSH生産:一般の生産計画の基本型、営業が市場を予想し、来月以後の販売予測を立てる。

  この販売予測を基に、計画部門が「来月の生産計画」を立て、

  生産はこの計画に基づいて各工程が生産を行う。

  どこかでトラブルが生じると工程と工程の間に仕掛り品の山が生まれる。

  マーケットが上向きの場合や、製品の種類が少ない場合は合理的。

    PULL生産:大野耐一氏が考えだした後補充方式の英語訳。

              前工程は少しの自工程完了の仕掛り品を置場に置く、後工程は自分の必要な

             モノを必要な数だけ、必要なトキに、その仕掛り品を取りに行く。

              前工程は取られた数だけ生産して置場に補充する。

              マーケットの変化が激しく、製品の種類が多い場合には有効。

 

   所が、山本七平の「常識の落とし穴」を読んでみると、この言葉が社会現象にも使われていた。(P121)

  曰く、西洋文化は未来に理想を置いてそれに引っ張られる(PULL)形であり、日本文化は

  現状に押し出される(PUSH)型で未来を形作る、特に徳川時代はそうだとある外国人は言うのである。

  所が明治以降は西洋文化を手本に日本文化を形成していった、PULL型になったと山本は言う。

   確かに大化の改新、明治維新、敗戦による改革等日本の文化革命は外部からの「ある理想」、

  例えば大化では中国からの律令の輸入、明治では西洋の先進技術、システムの輸入、

  敗戦ではアメリカ民主主義の輸入といった、未来の「ある理想」を形作るために、

  外部にそれを 求めて、それに引っ張られる(PULL)型になっている。

  それ以外では欧米等の根強い原理主義(キリスト教原理主義など)は日本にはないので、

  現状に流される(PUSH)型で未来を形作っていると思う。

  特に現在の日本の状況は正にそうである。

  昔は政治家、特に国会議員に成るのには多くの修行(例えば初級秘書から始まって上級になって、

  やがて地盤を譲ってもらって・・・)があった様だ。しかし、今日ではタレントになって

  (俳優でも、漫才師でも)名前を売ってしまえば、当選し易いと聞いたことがある。

   名前さえ売ってしまえば当選し易いとは、投票者を馬鹿にするのも甚だしいと思うかもしれないが、

  それが現状に押し流される世相、即ちPUSH型社会と言うものだそうだ。

   確かにヒットラー(独)が首相に当選した時、ドイツ国民のナチスの支持率は80%を超えていた。

  また、ブッシュのイラク侵攻に際しても、アメリカ国民の支持率は80%を超えていた。

   しかし、西欧の跳ね返り、反動の速度は数年で反応する。

  それは、イラクでのアメリカの反応を見れば良く解かる。

   日本では一般的にPULL型になっても、やがてはPUSH型になってしまう様だ。

  これを長所と考えるか、短所と考えるか、また日本人の特質と考えるか。

  それは個人個人で異なっても良い。

  ただそれによって「何が」「どの様に」変化して来たかを自分なりに考えることが重要ではないだろうか。

 

   40年位前、大野耐一氏と雑談していた時に質問したことがある。

  「なぜ後補充(トヨタ用語“PULL”のこと)を考えたのですか。

  「在庫を減らすこと大切だ」(言外に、その他もある、それは自分で考えヨ)

  「展開は大変だったのでは?」

  「鈴村や、部下たちがやってくれたからナァ」

 

   日本人はPUSH文化の中に浸っている。それをPULLに変えるとはいえ、

  大争議の後とはいえ、トヨタといえども大変だったに違いない。

  (大争議とは1949~50年、カンバンの導入は1954~55年)

   大野さんは当時製造課長として、まず自分の職場からトライを始めた。

  いずれにせよ、現在トヨタ方式の恩恵を受けている私は大野、鈴村の先達の苦労に頭が下がる。

 

  (近藤 哲夫)

第38話 効率と公平

2013年12月10日

   消費税が来年4月より5%から8%に上がることが安部内閣で決定された。

  これに対し、反対論が少しはあるが、あまり騒がれていない様だ。

  その理由は色々あるが、やはりアベノミクスによる、少しはほんわかとした雰囲気効果が

  大きいのではないか。(余り実感はないが)

   反対論として大きいのは低所得者層への逆進性(所得に対する比率)が高くなることであろう。

  これに対してはシンガポール等で実施している、所得税の控除または還付を実施すれば良い。

   それにしても反対論が意外にも少ない(共産党を除いて)のには驚く。

  逆進性を緩和することは、より公平に近付くと言われる。

  公平性の範囲はどの程度だろう?

   例えばジニ係数である値が出たとしよう。それをAとする。Aがいくらであれば良しとするのだろう?

   この所はあまり議論されないままではなかったのか?

  ある所でこの話をすると、

  最も公平なのは全員が平等の配分を受ける社会、ときた。

   平等とは権利も、モノも、金も全く同じである、こと由。

  この様な社会はマルクスの言う原始共産主義社会でしかあり得ないのではないか、との反論。

   現在日本の資本主義社会における“公平”又は”平等”とはいったい何だ?

  といった疑問があって、先日「効率と公平を問う」(小塩隆士、日本評論社)を読んでみた。

   公平性については良く解からなかったが、効率についてはよく理解が出来た。詳しくは

  上記の本を読んで下さい。

   読了して感じたことは、

  (1)民主主義は独裁に比べて金が掛かる。

  (2)社会補償費は金が掛かり過ぎる。

  という2点である。

   しかし、いくつかの点で疑問があった。

  1.効率について 

  経済学のみが“効率性”を扱っている(P8)

    この経済学のみという場合、その母集団は社会科学のことではないか?

    工学または会社経営にはこの効率が基本にある。

  2.効率性と公平性のトレードオフについて

    お互いに複雑に絡み合い、批判する関係にある(P10)と言う。

    会社経営ではこの効率のもとでの公平が当たり前になっている。

  確かに学問的にはトレードオフの関係かもしれないが、時間と場所を決めれば、その場、

  そのタイミングでの優先順序は決まるのではないか。

   少なくとも資本主義の下では「効率化のもとでの公平」になると考えられる。

  効率化がまず先に在ると考える。

 

   面白かったのは、老人民主主義(P207)と民主主義の生物学的限界(P213)である。

   老人パワーの減少として、年齢別選挙区の導入の一例は面白い。

  30歳台の若い人々が選出される仕組み作りが必要であろう。

   昔、日本には姥捨て山の伝説があった。この伝説の意味するものの1つは(他にも多くあるが)、

  ある年齢以上はその社会には不要ということである。

   このことを自覚して生き続けていくことが老人の役割の1つである。

  民主主義の生物学的限界は正にその通りである。

   何百年後、日本人が減少し続け、年金制度は破たんし、最後の1人になったとき、

  日本の民主主義も独裁も無くなる。

  ということは民主主義も独裁も人間の集団をどの様にまとめていくかについての一つの方法論なのであり、

  効率化を優先させれば独裁に傾き、公平性を優先させれば民主主義に傾くということかナ。

 

  (近藤 哲夫)

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